今回は7/5~8にかけて行った、三泊四日の近江水口旅行について報告する。
この旅行は龍勝院(記事)と近江水口龍勝院化粧料仮説(記事)に関係しているものである。
目次
はじめに
目的:なぜ水口なのか
〜龍勝院が繋ぐ、水口と武田、そして織田信長。〜
龍勝院。以前の記事[1]において紹介したが、織田信長の養子にして武田勝頼の最初の妻である。武田と織田の架け橋となるべく勝頼の元に嫁いだ彼女の「化粧料」(収入源となる領地)が近江水口にあったという言い伝えがある[2]。

しかし、信長が水口の地を支配下に置くのは永禄十一年ごろであり、一方で龍勝院が武田勝頼の元に嫁いだのは永禄八年である。未だ支配していない地域が化粧料として与えられるとは考えにくいのだが…。
今回はその言い伝えを検証すべく、水口へと向かった。
手段:昼は歩く。夜は考える。
ここで俺の旅がどのようなものか説明しておこう。
移動手段は電車やバスなどの公共交通機関のみ。あとはひたすら「歩く」脳筋戦法である。そしてホテルはできるだけ「大浴場」のある場所を選ぶ。歩くことで蓄積する疲労は風呂じゃないと癒せないのだ。
おおよその計画は旅行前に立てておくのだが、細かい目的地などは夜ホテルで考える。
水口上陸
7/5(土)ついに水口へと進軍。JRで名古屋ー亀山ー柘植ー貴生川と乗り継ぎ、近江鉄道で貴生川ー水口城南と進めば到着である。
・水口城と水口城資料館
まず初めに水口城跡にある水口城資料館へ向かった。水口城は堀と石垣が残っており、出丸の櫓が復元されていたが、本丸は運動場になっていた。江戸時代、将軍のお泊まり用の城として築城されたとのことで、不自然なほど綺麗な正方形の縄張りであり、戦国の城好きには物足りないとは思う。
復元された櫓の中は資料館になっており、水口岡山城などの水口の遺跡の出土品などが展示してあったが、戦国時代の水口を感じさせるものは、残念ながらなかった。

・水口歴史民族資料館と水口図書館
水口歴史民族資料館における展示は主に、「曳山祭」についてのものだった。この文化自体は江戸時代からの伝統のようで、またしても戦国時代は感じられなかった。江戸時代以降、宿場町としての水口繁栄が、あろうことか戦国時代の風景を色褪せさせてしまったのかもしれない。
少し印象に残ったのは水口の特産物についての展示だ。江戸時代の特産物ではあるが、現在でも有名な干瓢に加えて、どじょう汁も特産物だったらしい。「いつから」名産なのかはわからないが、こういうものはずっとその地で嗜まれてきたものの可能性が高い。戦国時代の水口を知る手掛かりになりうるものとして記憶しておこう。
ちなみにこの資料館、俺が訪れた日にまさかのエアコンが壊れているという張り紙があった。館内は冷房なしで、空気を循環させるだけで暑さを凌いでいた。
本来はゆっくり図書館で資料を調べたかったが無理だった。いかんせん、暑すぎた。しかし、ちらっとみた感じでは、名古屋大学の図書館を使用すれば十分と思われる。長居は無用か、、、。スズミタカッタナァ。
・水口神社
民族資料館のすぐ横にある水口神社へ向かった。「曳山祭」の中心地でもあるようで、現在の水口の精神的中枢と言えるかもしれない。

この水口神社において神社の入り口に「アーチ状の石橋」があった。あまりに急な曲率を持っているため、わんぱくなガキ以外は登らないだろう。この石橋と同様のものを以降、さまざまな神社で見かけたので、この地域特有のものかもしれない。
・水口岡山城
しばらく周辺を彷徨い、東海道沿いの神社・寺院を巡ったが「戦国時代」を感じられるようなものは見当たらず、行くあてもなく、計画を練るための時間もなかったので、体力に任せて水口岡山城に登城することにした。
豊臣秀吉による甲賀支配の象徴、すなわち戦国時代の終焉の象徴であり、徳川時代の到来の象徴。建てられて象徴となり、廃されて再び象徴となった城。

城跡から眺めた水口の町は絶景だった。
それと同時に、ここから見える景色に「龍勝院の名残り」はないのだと少し悲しい気持ちにもなる城だった。(悲しくなるのは多分俺だけ)
夜間考察:柏木三方中惣、そして甲賀郡中惣
その夜、俺はホテルで収集した情報と資料を踏まえ、その後の構想を練っていた。まずわかったことは以下の三つ。
- 水口城は家光のお泊り用
- 資料館は江戸時代の資料が主
- 旧東海道沿いに残る水口の遺跡も江戸時代のものがメイン
これらを踏まえると、探索方針を「戦国時代の水口」に絞っていく必要がある。一日目の最後の方でそう思い、行基が開基したという大池寺などにも行ってみたが、特に得られたものはなかった。
そして、俺はサーチにサーチを重ね、「甲賀郡中惣」や「柏木三方中惣」といった戦国時代の小規模豪族連合の存在に行き着いた、、、
武田山長敬寺
7/6(日)、二日目は初めに、今回の旅の最大の目標。武田と水口を繋ぐ存在であり、テンヨ武田の会社紹介にも登場した、「武田山長敬寺」に向かった。

武田さんのお墓もあったので、「武田」の影はあったが、もちろん、甲斐武田家と関係があるかはわからない。ただ、長敬寺のある「水口中畑」は四方を山に囲まれ、集落への入り口は切り通しのようになっており、まさに「隠れ里」という雰囲気だった。
この場所なら、「甲斐武田」の残党が信長の「お膝元」とも言える近江で生き延びていたとしても不思議ではない。
柏木三方中惣
東海道沿いにふらついたのち、前夜に考察した柏木三方中惣を調査していく。
・山中氏屋敷跡
まず初めに辿り着いたのは山中氏屋敷跡。周囲の田んぼから一段高くなっている土塁が印象的だった。この山中氏は甲賀市誌にいくつか書状が残っており、この地の有力者だったようである。

・柏木神社

柏木三方中惣の精神的中枢だったようだ。神社の由緒書きによれば、天正八年に織田信長によって盛大に破壊された模様。
天正三年の「長篠の戦い」で武田勝頼が敗北、天正六年の上杉謙信死去と御館の乱による上杉の衰退、天正八年八月には石山本願寺降伏と立て続けに反織田勢力が打撃を受け、その流れで甲賀も信長に屈したのだろう。
そう考えると長篠の戦いにおける勝頼の決戦は反織田の最後の希望だったのかもしれない。
夜間考察:戦国時代の甲賀で繰り広げられる「織田 VS. 武田」
その夜、俺は甲賀市誌の山中氏文書を思い出していた。主な書状は二つ。一つは信長の比叡山焼き討ちに対し、信玄が批判する書状。なぜ、山中氏にそのような文書があるのか。この文書が甲賀の有力者たちを懐柔しようとする信玄による策略だったからではないか?
もう一つは水口の地が元亀二年に武田信虎の娘おふくのものになったという書状。当時水口は織田信長の支配が及んでいる時期に、なぜ「武田」に渡されたのか?また、元亀二年はちょうど龍勝院の亡くなった年である。偶然ではあるまい。
ここから見て取れるのは武田信玄と織田信長による熾烈な勢力争いが「甲賀」で繰り広げられていたということである。
それを踏まえ、ついに俺は甲賀忍者の里、「甲南」への進軍を決意した。
甲賀郡中惣遺跡群
・矢川神社
ここが「甲賀郡中惣」の精神的中枢。俺が行った時はちょうど七夕の催しの準備をしていたようで、部外者観光客として気まずい感じだったがさっとお参りだけした。言い換えれば、今なおこの地の中心として地元の人々の集まる場所なのかもしれない。
甲賀郡中惣遺跡群はこの矢川神社から南西方向に点在している城跡群として認定されている。遺跡群に認定されているもの以外にも、いくつか小高い丘が点在している。

・竹中城・寺前城・村雨城・新宮城・新宮前城
まず初めに一言。俺は上記の城の敷地内に「攻め込む」ことはできなかった。理由は単純で、とんでもない量の草木に阻まれたからである。なので、周囲から眺めることしかできなかった。無力である。次来るときは植物が弱っている季節にしよう。
以下に各城の見た感じを書き出しておく。
- 竹中城は集落の中に紛れ込んでおり、周囲を土塁に囲まれた地形をしている。草が生い茂っていなければ美しい土塁が拝めそうではあった。
- 寺前城と村雨城は二つが繋がったような城となっている。登城できそうな場所は完全に草に閉ざされていた。
- 新宮城と新宮支城も寺前城と村雨城と同様に二つで一つで機能していたような感じである。周りからぐるっと見た感じ、そして後で航空写真を確かめた感じ、寺前城や村雨城とも一体に運用されていたのかもしれない。近くにある服部城まで含めて連なる小高い丘に囲まれるように集落があった。これが後世の開発による立地なのか、戦国時代から続いているものなのかは調べなければいけない。
戦国時代からの地形であれば、小規模ながら「総構え」と言えるのかもしれない。
甲賀郡中惣は隣り合う城同士の戦いを想定した距離感ではなく、明らかに共同で戦う仕様に感じられた。大きな権力の成立がなく、共同体としての自治がもたらした特異な構造だと俺は認識した。
甲賀流忍術屋敷
どうしようか迷いながらもやってきた。遠い昔に来たことがあるかもしれない。しかし、はっきりとは覚えていなかった。
とりあえず案内に従いビデオを見て、落とし穴を除いたり、隠し梯子で狭い2階に上がって小さい窓から一階を覗いたりしていた。クナイや鉄砲の展示は面白いが、ここで記述するような発見ではない。
まあ、涼みがてらゆっくり見て回ろうと思っていた矢先、気になる記述を見つけた。
それはこの家の持ち主「望月氏」に関してである。
どうやこの望月氏は平安頃からの由緒であり、その一族は「全国展開」していたようだ。(言い方が陳腐だが…)その中で一際燦然と輝くように俺の目を引いたのは、「信濃小県郡の望月氏」と関係しているというものだ。
小県郡の望月といえば、戦国時代、武田信玄の弟・信繁の長男・信頼が家を継いだでお馴染みの名家である。
武田一族に組み込まれた望月氏がこんなところで「甲賀とのつながり」になるとは…。
戦国時代の甲賀が、「武田とともに織田に抵抗していた」という描像が浮き彫りになる。
夜間考察:浮き彫りになる武田と甲賀
武田は中央情勢を甲賀の衆を利用したり、水口を拠点にしたりして集めていたのかもしれない。同時に甲賀の衆は衰退する六角家ではなく、武田を後ろ盾に信長への抵抗を試みたのかもしれない。そしてそれは武田勝頼の長篠の戦い、そしてその敗北によって拠り所を失い、信長への降伏に繋がったのかもしれない。
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次なる研究
・派閥構成に見る、織田信長の上洛戦略〜「足利義輝・織田信長・武田信玄」VS.「三好長慶・斎藤義龍」〜
龍勝院が輿入れする永禄八年までの情勢は以下のようである。
このように足利義輝と三好長慶による諸大名の抱き込みが見て取れる。足利義輝の諸大名抱き込みは長尾景虎の例を見ても明らかなように、かなりの成果を出している。三好長慶による義輝殺害はこの一連の成果に焦ったものである可能性が高い。
龍勝院の武田家への輿入れは、義輝による諸大名の抱き込みと連携強化の一環でもあった可能性がある。つまり武田と織田が連携をすれば、義輝にとっては心強いというわけである。
ここで言いたいことは、永禄八年当時、いまだ美濃統一も成し遂げていない織田信長の娘の化粧料として近江水口が与えられた可能性があり得るということである。義輝からすれば尾張から伊勢を経由して上洛する経路上の水口を信長に与えたとしても不思議ではない。その上それが織田と武田の連携強化、さらに武田の抱き込みも兼ねているとすれば尚更である。
足利将軍家を中心とした情勢と「織田と武田の抱き込み」という思惑での水口授与は面白い研究となるのではないか。
・干瓢とどじょう汁〜水口のグルメは伊那・高遠に伝わったのか〜
龍勝院の化粧料が水口にあった場合、その地の特産物が嫁ぎ先の伊那高遠に伝わった可能性がある。もちろん、当時の物流や保存技術を考慮すれば食材を輸送することは難しい。保存可能な干瓢は伝えられた可能性がある。一方で技術などは口伝てに伝えられると考えると、メニューとして伝わる可能性は十分にある。
干瓢やどじょう汁は「龍勝院を介した水口と高遠の繋がり」として龍勝院の研究に新しい視点をもたらす可能性がある。
・遺跡管理のあり方〜守るべき価値に見合う代償とは?〜
最後に少し違う視点から研究テーマを設定する。それは、どうやって遺跡を管理していくのかである。
今回見て回った遺跡はどれも草木の中に埋もれていた。一方で遺跡群の周辺には今を生きている人々がいた。
遺跡は俺のような人が見れば価値ある「遺跡」であるが、ただの荒地と思うこともできる。
実際今回出向いた遺跡の多くが立ち入ることすらできなかった。行く行くは土地の管理も手が行き届かなくなるのではないかと不安になった。
遺跡管理の現状・課題・解決案についても少しずつ調べ、何かいい案がないか考えたい。
まとめ
緑深まる季節の中で、江戸時代という太平の世に埋もれた戦国甲賀は色褪せていた。それでも断片的に集まる情報は、十分に色鮮やかな歴史を描いてくれた。
追い求めた龍勝院の影は歴史の流れの中に陽炎のように微かに、だが確かに残っているように感じた。
将軍家と織田、そして武田。戦国時代の実力者たちの絡み合う思惑が、龍勝院に「近江水口」の地を授けたのかもしれない。
この心震わす旅の記録が、次なる研究の礎となることは間違いない。
参考文献
[1]しんたブログ「龍勝院(遠山夫人)」https://shinta-blog.hatenablog.jp/entry/2025/06/14/214434
[2]テンヨ「テンヨのはなし」https://www.tenyo-takeda.co.jp/activity/abouttenyo/takedake.html



