史料調査報告 2025/09/02 『當社神幸記』
鳥居忠春〜悪名が悪名を呼ぶのか?〜
諏訪史料叢書 巻17「當社神幸記」[1]を調査している際に、鳥居主膳正忠春に関する記述を見つけたので、それを元にした考察も含めて、今回はまとめる。

目次
鳥居主膳正忠春
まずは鳥居主膳正忠春という人物についてだが、寛永13年から高遠藩主として高遠城に赴任していた人物である。
この高遠藩というのは江戸時代通じて財政難に苦しんでいたようで、特に歴代藩主の浪費がすごい。鳥居主膳正はこの浪費の歴史の始まり、「暴君」として語り継がれている。詳しくはwikipedia「鳥居忠春」等を参照されたし。
當社神幸記・寛永16年
今回着目したのは當社神幸記の寛永16年の記述である。御神渡りの観測結果の奉行所への報告書である當社神幸記になぜか「先年八月」の出来事が報告されていた。
先年・寛永15年の干支は戊寅。寅年ということは諏訪大社の一大行事「御柱祭」の年である。
報告内容は『「鳥居主膳正高遠城周(高遠城主?の誤りか)」が「如先例御柱騎馬可被相勤之旨 大祝頼綱 雖催促」:先例のように御柱の騎馬をお勤めいただく旨を大祝頼綱が催促したけれども「神役之作法不及合」:神役の作法がかなわなかった。』という内容を公儀に通達したということだった。
要するに鳥居主膳正の文句を上司(幕府)に言いつけたといった感じだろう。
wikipediaによると寛永15年9月の増上寺警備あたりから幕府へのご機嫌とりという形で鳥居主膳正の「暴政」が記載されている。
しかし、寛永15年8月の御柱祭時点ですでに悪名が立っているような様子である。いきなり公儀に通達するとは思えないので、すでに悪評判があって御柱の勤めを果たさなかったことを告げ口された可能性が高いのではないだろうか。
悪名が悪名を呼ぶのである。
高遠と諏訪:武田勝頼
鳥居主膳正の悪名を書き立てることは僕にとってさほど重要ではない。個人的に着目したいのは、高遠城主が諏訪の祭事に関わっていたという事実である。高遠藩主は騎馬行列を御柱祭に出していたようで(絵巻とか残っている)、高遠と諏訪の関係性が窺える[2]。ただ、藩主自身が出向いていたかどうかは要調査である。(新規の研究テーマになりうるかもしれない)
最後に指摘したいのは、高遠城主時代の武田勝頼(当時諏訪勝頼)が諏訪の祭事に関わっていた可能性である。武田勝頼の母・諏訪御料人[3]は言わずと知れた諏訪の血を引く人物である。つまり武田勝頼は江戸時代の形式的な藩主たちより断然諏訪との関わりは深く、武田勝頼が御柱祭や御神渡りに関わっていたのは否定する方が難しいのではないだろうか。直接的な史料に乏しい部分であるが、この「高遠藩と諏訪の祭事」は間接的な証拠として重要だと考える。
懐に温めておこう...。
まとめ
今回調べた寛永15年の出来事は「諏訪市博物館」の展示の中にも記述があるらしい。以前博物館に行った時はあまり気に留めていなかったので、見逃してしまった。もったいないことしたなぁ。もう一回博物館にもいこうかな。
参考文献
[1]諏訪教育会 編『諏訪史料叢書』巻17,諏訪教育会,1932. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2456821 (参照 2025-09-01)
[2]諏訪市博物館 https://suwacitymuseum.jp
[3]諏訪御料人 https://shinta-blog.hatenablog.jp/entry/2025/04/24/222344