
目次
龍勝院ちゃんの「ヒ・ミ・ツ」
龍勝院についてこちら
戦国の世に生きた龍勝院――苗木の出身、幼少期は織田信長の元で育ち、後に武田勝頼の元に嫁いだ彼女。その婚姻にまつわる小さな謎があります。
それは...お・か・ねです。
この時代の女性はどうやってお金を得ていたのでしょうか?夫からお小遣いをいっぱいもらっていたのでしょうか?
答えは「自分で稼いでいた」です。たくましいですね。
ちなみに稼いでいたといっても労働に従事していたわけではなく、「化粧料」という領地をもち、そこからの税収で暮らしていました。
龍勝院ちゃんのヒ・ミ・ツは「どこに化粧料があったのか?」という秘密です!
以前近江水口に旅行に行った話はこちら!
近江水口龍勝院化粧料仮説
近江水口(現在の滋賀県甲賀市水口町)が、龍勝院の化粧料だったという伝承があります[1]。しかし、伝承以外に決定的な証拠がありません。そのうえ、化粧料は通常なら夫の家族や自身の家族の支配下の土地があてがわれるものですが、水口は信長領でも武田領でもありませんでした。
これだけだと単なる言い伝えだと無視してしまいそうですが、せっかく手に入れた龍勝院ちゃんのヒミツをそうやすやすと手放すことはできません。今回は近江水口龍勝院化粧料仮説を当時の政治情勢と相続の観点から調査してみます。
足利義昭による甲尾同盟の斡旋の可能性

足利義昭は龍勝院の結婚する直前、兄の足利義輝が殺されたため身の安全を確保するために義昭は近江の和田に身を寄せます。その後同じく近江の守山に拠点を移し、全国の大名に上洛を促すことになります。図からもわかるように、近江水口はちょうど和田と守山の中間地点にあります。まさに義昭の勢力範囲というわけです。
さらに足利義昭は史実において信長に領地を与えています。よく知られているのが同じく近江の大津と草津です。つまり義昭は「近江の領地を渡し、自身の上洛を手伝わせる」という戦略を採用しているわけです。大津や草津を信長に与えたのは上洛後ですが、織田信長と武田信玄の同盟の際に水口が信長・信玄陣営に与えられていたとすると、水口は信長の上洛の足掛かりという大切な役割があったのかもしれません。
つまり、足利義昭が自身の上洛のために信長に「龍勝院の化粧料」という名目で水口を与えた可能性は十分あるのです。さらに義昭にとってみれば、信長が信玄と同盟すると信長は義昭の上洛支援に全力を注げるようになりますし、信玄を味方に引き入れることもできます。つまり、義昭にとって一石三鳥ともいえる戦略になるわけです。
龍勝院亡き後も続く水口と武田
もう一つの状況証拠は近江水口が元亀二年の11月28日に水口が武田信虎の娘に与えられたという事実です。甲賀郡志に書かれているこの事実は非常に大きなヒントです[2]。
龍勝院の死去は元亀二年9月16日、高野山に位牌が納められたのが元亀二年11月26日です。この完璧なまでの流れは偶然ということの方が難しいのではないでしょうか。
- 9/16 龍勝院死去
- 9/26 武田家の使者が高野山に到着
- 9/28 相続として水口が武田家の関係者に渡る
この時系列が私の考えになります。またこの時期には足利義昭と織田信長は対立しており、武田信玄は足利義昭の求めに応じて信長と対立を深めています。水口を武田が相続する方が義昭としても嬉しいというわけです。
YouTube企画「龍勝院ちゃんの近江水口、巣ごもり計画【信長の野望・創造】」
まとめ
歴史の中に霞む龍勝院ちゃんの名残を近江水口に感じるなんてとても面白いと思っています。龍勝院ちゃんの運命が当時の政治情勢に大きく左右されていたことがわかるのではないでしょうか?
歴史のカギを握っていたかもしれない龍勝院ちゃんをこれからも追いかけていきましょう!
近江の地に、彼女の微笑みが今も残っているのかもしれません。

参考文献
[1]テンヨ「テンヨのはなし」https://www.tenyo-takeda.co.jp/activity/abouttenyo/takedake.html
[2] 信濃史学会 編『信濃 [第3次]』61(12)(719),信濃史学会,2009-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11199604 (参照 2025-05-19)