
今回は勝頼を最期まで支え続けた、強く優しく美しい正統派ヒロイン、桂林院ちゃんについて紹介です!
目次
生没年
生年
生年は永禄七年。
没年
没年は天正十年、勝頼と共に天目山で自害した。
人物紹介
長篠の戦いで敗北を喫した武田勝頼は北条家との外交関係の強化を図って、天正四年北条氏政の妹である桂林院を甲府に迎えた。桂林院13歳、対して勝頼は32歳だった。
しかし、二年後の天正六年、上杉謙信の死とともに勃発した「御館の乱」での対応をめぐり、武田と北条は敵対することになる。それでも桂林院は小田原には戻らず、勝頼と夫婦のまま甲府にとどまった。
武田八幡宮には彼女が奉納したとされる願文が残されており、そこには夫である勝頼の武勲・武田の勝利を願う彼女の想いが記されている。(これは後世に作られたものという説もある。)
その後、天正十年、織田信長による甲州征伐で追い込まれた勝頼と共に天目山で自害した。
「甲乱記」に記された最期は儚くも美しく気高いものである[1]。勝頼が「小田原に逃げて、我々の菩提を弔ってくれ」と「細々」言うのに対し、「前世の浅からぬ縁で夫婦となったのだから、最後も一緒に自害する」と言い切り自害したと甲乱記は伝えている。辞世の句は、
黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき
思ひに消る 露の玉緒
享年19歳。そのあまりにも儚いその一生と、最後まで勝頼と添い遂げたその一途さ、勇気ある一面から、後妻でありながらも勝頼の妻としての知名度は頭一つ飛び抜けている。
法名は「桂林院殿本渓宗光」「北条院殿模安妙相大禅定尼」「陽林院殿華庵妙温大姉」。
先日山梨県立博物館に所蔵されている「蘭渓字説」というものが公開されていたので見学しました。これは恵林寺の僧・快川紹喜が桂林院に与えたものではないかと言われています。
また、天正五年の諏訪下社三重塔棟札[2]に勝頼と連名の数人の中に「御前様」が記載されており、これが桂林院のことである可能性は高い。諏訪旅行をしたのかもしれない。
研究テーマ
桂林院研究に関してはそれほど興味を持って取り組んでいたわけではないので、ここでは一つだけテーマをピックアップだけしておく。
- なぜ桂林院は甲府に残ったのか
北条武田お互いの思惑の中で、なぜ彼女は甲府に残ったのだろうか。これは解き明かしていきたい。
キャラクターデザイン構想中
冒頭で貼った桂林院ちゃんのイラストは現在構想中のものである。少しギャルっぽくしたい+髪型は金髪ショートウェーブにしてみようかなと思っている。
もう少し茶髪気味の方がいいか。あと瞳の色を青+黄緑にしたが、これだと金髪碧眼少女っぽくなってしまう。別の色を模索しよう...。
まとめ
落日の甲府において、最期まで勝頼と共にいた桂林院は、勝頼の心の拠り所だったのかもしれない。今後は少しずつ研究テーマを増やすことから始めていこう。
参考文献
[1]甲斐叢書刊行会 編『甲斐叢書』第2巻,第一書房,1974.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12406196 (参照 2026-01-05)
[2]諏訪教育会 編『諏訪史料叢書』巻29,諏訪教育会,1939. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2456833 (参照 2026-01-05)