今回は世に名高い甲陽軍鑑から勝頼の苦悩が垣間見えるエピソードを紹介。
愛すべき(?)妻・龍勝院への想いと武田家の次期当主として背負うプライド。その狭間で、勝頼は何を掴もうとしていたのか...。
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目次
甲陽軍鑑「品第三十七」
今回は甲陽軍鑑「品第三十七」を取り上げ、現代語訳[1]と書き下し文[2]を元に内容を調査した。
この部分には永禄十三年の9月〜元亀二年までの動向が書かれている。目録は、
一、氏政輝虎深沢城攻事付氏政より輝虎を憑引出す事
一、土屋右衛門尉ノ事
一、氏政信玄三嶋にて対陣ノ事付秋山伯耆守武略幷山県三郎兵衛家康衆と喧嘩之事
一、関甚五兵衛事
一、北条氏政と和睦事付信長箕作城攻落幷家康若狭へ働の事、同家康義景と合戦事
一、信長噂ノ事
一、諸角助七郎と原甚四郎喧嘩事
一、信長家康氏政輝虎批判ノ事
一、高天神にて内藤修理手柄事付城々仕置幷吉田ノ宿にてせりあひの事
今回はこの中で目録の上から三つ目、「氏政信玄三嶋にて対陣ノ事付秋山伯耆守武略幷山県三郎兵衛家康衆と喧嘩之事」での一幕に着目する。
永禄十三年9月の初め、三嶋で氏政と対陣した信玄は、その後江尻に出陣する。
この時秋山伯耆守が三河へ出陣し勝利を得たと書かれている。また、10月初めに今度は山県三郎兵衛が「きとうぐん(現在の静岡県掛川市や菊川市のあたり)」で乱取りをしている。さらにそれに対して出陣してきた家康と一戦交えて追い返したことが記されている。
後に詳しく書くが、この時期武田と徳川は織田を介した協力関係にある。
三河はもちろん、この時期にはすでに掛川周辺も徳川の支配下である。また大井川より西側は徳川領という取り決めがあったにも関わらず、このような行いをした秋山・山県両名を長坂釣閑斎と跡部勝資が批判している。
批判内容は至極もっともで、
- 武田は織田と婚姻同盟をしている
- 徳川はその織田と婚姻同盟をしている
- 徳川に対し争いを仕掛けるのは織田との同盟に違反するのと同じ
一方で、土屋昌次・馬場信春・内藤昌豊・真田信綱が山県らの「如在なき通(詳細な働き)」を信玄に申し上げると、信玄はむしろ喜び、
とむしろ山県らの武勇を褒めたというエピソードである。
武田家外交状況
この時期の武田家の外交状況は綱渡り的な状況であり、目まぐるしく変化をしている。以下の図にざっくりとした外交状況を示してみた。
青:友好、黄:注意、 橙:険悪、 赤:交戦、 黒:滅亡

永禄八年に、我らが龍勝院ちゃんが結婚したことで、織田と友好関係となっている。一方、今川と敵対していた織田との同盟が今川を刺激し、結果永禄十一年に駿河侵攻が始まる。
徳川は駿河侵攻までは織田と協調していたが、武田の駿河侵攻に際し、当時飯田城主の「秋山伯耆守虎繁」と三河と信濃の国境でたびたび衝突していたようである。
織田信長は当初こそ徳川武田の間を取り持っていたようであるが、永禄十二年以降は目立った動きをしていない。この頃から武田を警戒していたのかもしれない。
元亀元年の今川滅亡、元亀二年10月に北条氏康が死去し、北条氏政は父の遺言などもあり、外交方針を転換。「第二次甲相同盟」が成立する。
上杉とは基本的に敵対しているが、元亀元年に「甲越和与」が成立し、外交緊張は少し緩んでいる。
北条と再び同盟を結び、上杉との争いも落ち着いたことで、元亀三年、ついに武田信玄は「西上作戦」を決行。織田・徳川と全面衝突が始まるのである。
品第三十七にはこの一連の情勢が書かれている。非常に重要な部分であると言える。
家中対立〜主戦派と慎重派〜
ここからはこの史料内容をいかに解釈していくかを議論する。このエピソードからかなり端的に、
「長坂釣閑斎と跡部勝資」VS. 「土屋昌次・馬場信春・内藤昌豊・真田信綱」
という構図が見て取れる。この構図はそのまま信玄死後の勝頼政権でも見られる。この時期からすでに派閥争いの主要な構図だったのだろう。
また、信玄が山県昌景を褒める際に「勝頼と信豊」の名前をあえて挙げている可能性があるとすれば、文面上には現れないが、秋山・山県両氏への批判は、「勝頼や信豊が主導し、長坂釣閑斎と跡部勝資が実行した」と考えることができるのではないだろうか。
品第三十七に描かれている期間は、勝頼の活躍が目覚ましい時期である。永禄11年の第一次駿河侵攻で一度駿府を落とすも、その後外交情勢が悪化し、武田軍は撤退を余儀なくされた。その後、関東遠征や第二・三次駿河侵攻においては、「滝山城攻め・小田原攻めからの殿軍・三増峠の戦い・蒲原城攻め・花沢城攻め」と立て続けに勝頼が活躍する。
それにも関わらず勝頼の名を挙げているところに、著者高坂昌信の勝頼への軽い反発が文章表現の端々に混ざっていると読むこともできる。
結果的に、
「勝頼・典厩信豊・長坂釣閑斎・跡部勝資」
VS. 「土屋昌次・馬場信春・内藤昌豊・真田信綱・高坂昌信」
という派閥争いに読み替えることができるのではないだろうか。
これは単に派閥争い・権力争いというより、外交方針の違いに基づいたものであった可能性が高いと考える。
織田徳川との同盟を軸とした外交を重視する「慎重派」と、野心的な「主戦派」と呼べるのだろう。第一次駿河侵攻での失敗から武田家中において「慎重派」の発言力が高まっていたのかもしれない。
このエピソードにおいて信玄は「懐の深さ」を思わせるような描き方をされている。実際には両派閥のバランスを見ていたのではないだろうか。
龍勝院の存在と勝頼の苦悩
勝頼の妻・龍勝院は織田信長の養女であるため、必然的に勝頼・龍勝院は「親織田派」となる。
だからと言って、勝頼が「龍勝院を愛していたから」という考えは危険である。しかし、勝頼には龍勝院との関係性を重視する明確な利点・理由がある。
それは、龍勝院を介し、勝頼が織田家という後ろ盾を得ることである。これは家臣団に対し、自らが強い後ろ盾を持っているという宣伝となり、勝頼の権力基盤となる。
しかし、対外的に融和策を取るということは「弱腰」のレッテルを貼られる可能性があるということである。信玄の言葉は「勝頼の融和姿勢」を暗に批判していると捉えることもできる。
勝頼としては自らの政治基盤として織田との同盟を守りたい一方、弱腰のレッテルは武家政権として致命的なものとなってしまう。
現在、武田と織田の全面衝突は、元亀二年十月に北条氏康が死去し、武田としては北条・上杉との外交関係を改善できたことで、もともと内在していた「織田・徳川」との軋轢が表面化したことに起因すると考えられている。これが最大要因であることは間違いないだろう。
しかし、元亀二年九月に龍勝院が死去したことで、勝頼が「織田との同盟を軸とした権力基盤の構想」を失い、武田家中における「親織田派」という構造自体が消滅した可能性も一要因としてあり得る。
まとめ
今回は甲陽軍鑑「品第三十七」の一節を調査・紹介した。
信玄死後、勝頼の「対織田強硬姿勢」はこの頃の経験から来ているのかもしれない。
そしてそこには、微かながら龍勝院ちゃんの影が揺れているようだった。
果たしてそれを愛と呼ぶのか...?
それでも、傍目から見れば「龍勝院のために奔走する勝頼」。
愛するから必要なのではない、必要だから愛することもあっていいのではないだろうか?

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参考文献
[1]腰原哲朗 訳. 甲陽軍鑑, 教育社, 1979.9, (教育社新書. 原本現代訳 ; 4~6). https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001422514
[2]『戦国史料叢書』第4,人物往来社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2987056 (参照 2026-01-27)